自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる。

そういったのは「石垣りん」という詩人です。

ここ数日はこの方の「表札」という詩が頭から離れません。

このブログの更新自体がかなり久しぶりになりました。
この間何をしていたのかといえば、オウンドメディアのコンサルに力を入れたり、ブログの書き方・作り方を教えたり、はたまたFacebook広告を触っていたり・・・。
5日後には研修講師として人前に立つ予定でもあります。

特にメディアの作り方や記事の書き方について、昨年から人に教えることが多くなっていました。
教えてくださいと言われると、拒む理由もないので、持てるものすべてをお伝えしてきました。

会社員として働いていた時からも、人に教える仕事は多く担当してきたので、決して初めてというわけではありません。

多くの方に良いご縁をいただき、恵まれていると思います。
人様から先生と呼ばれたり、依頼をいただくこと。
ありがたいことだと思っています。

でも、どうにもやるせない思いが募っていることに気が付きました。

いや、仕事が嫌だとかってわけではないのです。日々発見も学びも喜びもあるので。

ただちょっとした違和感ですね。

その原因は何なのか。
振り返ってみようと、朝から頭の中身を整理していました。

その姿は自分本当に望むものなのかどうか。

自分のことは自分では見えないものだから、人から求められていることをするといい、とはよく言います。

だけど、人から求められる姿が、自分が望む姿とは限らない。

で、冒頭の石垣りんの詩になると。

表札

自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる。

自分の寝泊まりする場所に
他人がかけてくれる表札は
いつもろくなことはない。

病院へ入院したら
病室の名札には石垣りん様と
様が付いた。

旅館に泊まっても
部屋の外に名前は出ないが
やがて焼き場の鑵にはいると
とじた扉の上に
石垣りん殿と札が下がるだろう
そのとき私がこばめるか?

様も
殿も
付いてはいけない、

自分の住む所には
自分の手で表札をかけるに限る。

精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
石垣りん
それでよい。

「現代詩文庫46 石垣りん詩集」  思潮社 より引用

あまりに潔い、最後の4行。

チカラのある言葉は時に強力な気づきをもたらしますね。
石垣りんは銀行員として働きながら詩を書いた女流詩人です。だからこそ働く女に響く作品を残しています。

詩の解釈自体は、研究者にしていただくとして、

今回な私がこの詩を思い出してしまうのは、先生といわれるよりは名前で呼んでほしい。
すなわち教えを請われるより、どんな相手であっても同じ目線で仕事がしたいという気持ちがあるからだと思います。

私は対等かつ相手に敬意を払う気持ちでいるのですが、相手が様だの殿だの先生だのと言われると調子が狂ってしまうんじゃないかなぁ。

まぁ。細かい話ではありますがね。クライアントとは上下関係ではなく頼られるでもなく、伴走者でいたいのです。